『老子』を読み返してみた・・・79.正論の振りかざし過ぎに注意
|ω・) ソーッ・・・ 皆さん、ご機嫌よろしゅうに。
『老子』全81章のうちもう79章まで来てしまいました。完走までもう少し・・・。このシリーズの完結後も、何かのかたちで漢籍を紹介していきたいと考えてはいるのですが・・・まだ何も決まっていません(-ω-;) 今日は債務の取り立てになぞらえての人生訓。そんな感じの章になっています。
『老子』第79章
和大怨、必有余怨。・・・中略・・・ 是以聖人執左契而不以責于人。故有徳司契、無徳司徹。
大怨を和すれば、必ず余怨あり。・・・中略・・・ ここを以って聖人は左契を執りて以って人を責めず。故に有徳は契を司り、無徳は徹を司る。
訳:大きな怨みを買ってしまったなら、たとえ和解したとしても怨みが残ってしまう。・・・中略・・・ なので聖人は、仮に債権者の立場であっても、責めて取り立てはしないものだ。徳のある者は取り立てを控え、徳のない者は容赦なく取り立てる。
たとえば裁判に勝って首尾よく慰謝料などをせしめたとしても・・・その和解は金銭上のもの。裁判上のお約束みたいなものに留まるのみです。どうしても「コイツ嫌い」という思いは残ってしまいますね。いわゆる逆恨みというやつでしょうか。
そういう遺恨から、また新たな紛争が起こったり、酷い場合には恨みが消えない感情に任せて傷害事件、さらにその上といった事態にも発展しかねません。
老子はこれを借金に例えます。借りたのに返さない方が悪い。だからさっさと返せ。返せないなら担保に入ってる家をもっていくぞ。これはたしかに正論です。私が居る法学の世界でもこれは常識。しかし、こういうものはあくまでも最終兵器と心得るべし。そういう事のようです。
正論や法を用いて力でねじ伏せたとしても、必ずしも相手は心服しない。むしろやっつけられたことでリベンジ心を燃やしてしまう。これが悲しいかな人間の習性ですね。だから、正論を振りかざしてねじ伏せるのも、やりすぎは良くない。
この辺のさじ加減を心得ているのが、いわゆる聖人というもの。たしかに、正論で論破されても心には響いて来ない・・・そんな言説が世の中には溢れていますね。だから、正論は正論なんだが、それでもなんとなく空虚に聞こえてしまう。
それよりは・・・理路整然な要素は見当たらなくても、心から誠意から出てくる訥々とした弁のほうが魂を震わせる。別に甘やかす訳ではありません。借金を返さないとんでもない野郎であっても、人として最低限のリスペクトは払っておく。ここぞとばかりに罵倒するのは、紳士淑女のたしなみではない。そういうことですね。
・・・わかっちゃいるけど感情が先に立ってしまうんです😎
参考文献:守屋 洋著『新釈 老子』
PHP文庫1988年

ほなまた! 失礼!
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