『老子』を読み返してみた・・・45.真の雄弁

|ω・) ソーッ・・・ 皆さん、ご機嫌よろしゅうに。



 本日は耳に優しい言葉、勇気がわくような演説・・・それらのものが如何に虚しいものか。を説いた章になります。
 



『老子』第45章
大弁如訥、大嬴如絀・・・中略・・・静清可以為天下正。


大弁は訥(とつ)なるが如し、大嬴(えい)は絀(ちゅつ)なるが如し・・・中略・・・静清にして以って天下の正たるべし。


訳:真の雄弁は訥弁のようだ。真の豊かさはどこか不足しているように見える・・・中略・・・静清に徹していれば、天下の模範となることが出来る。



 ・・・訥弁(とつべん)というのは雄弁の真逆ですね。勝手な印象ですが、探偵に例えるなら、雄弁は明智小五郎。訥弁は金田一耕助。こんな感じかも知れません。金田一は多少どもりが有ったと描かれています。
 しかし、実際に聞いていて説得力があるのは金田一の印象ですね。滑舌もよろしくないため、聞き手は懸命に「何を言ってるのか」逃さないようにしてくれる効果も有るでしょう。逆に立て板に水のような話しぶりだと、その小気味よさのあまりに「はて?何の話だったっけ?」ということもまあまああるあるでしょう。


 どもり、訥弁というのは、どうにも陰の印象が強いと同時に「静」ですね。しかし、そうであるからこそ模範がつとまる。そういうことなんでしょうか?




やたら流暢なのに中身が無い。まああるあるですね。おまけに五月蠅い。これは始末が悪い。また、そういう奴に騙されるおバカが何と多いことでしょう・・・




参考文献:守屋 洋著『新釈 老子』
PHP文庫1988年

ほなまた! 失礼!
|彡. サッ!!