『老子』を読み返してみた・・・22.曲なれば全し


|ω・) ソーッ・・・ 皆さん、ご機嫌よろしゅうに。



 今回は『老子』の22章です。本日も「え?」と思わせるような逆説が飛び出して来ます。弱々に見えて実は強つよ。そんな驚きの世界・・・。曲というのは、イケイケオラオラの直線的な強さではなく、迂回しながら勝ちを目指すという、いわゆる二番手戦略的なやり方なんだと思います。



『老子』第22章
夫唯不争、故莫能与之争。古之所謂曲全者、幾語哉。誠全帰之。
夫れただ争わず、故に能くこれと争うことなし。古の所謂曲なれば全しとは、あに語らんや。誠に全くしてこれを帰す。


訳:人と争わない。だから争いを仕掛けるものがいない。古人も「曲なれば全し」と語ったが、その通りだ。我が身を全うして「道」に帰ろう。




 なんというか、あの言葉・・・「能ある鷹は爪隠す」あるいは、もっと俗っぽく表現するならば「金持ち喧嘩せず」と言ったところでしょうか? 争わないから誰も争いを仕掛けられない・・・これは逆説ですが、なんだか日本の防衛を言われているような気がしてきます。


 ただ、どうなんでしょう。「争うことなし」で済ましてしまうには、やはり「こいつに手を出すと・・・」と思わせる何かが無いといけない。そうでなければ「争うことあり」になってしまいますね。
 つまり、舐められっぱなしでは、そもそもお話にならない・・・。そういうことかも知れません。一見チョロそうだけど、よくよく見てみたらそうでもない。なんか怖そう。そんな感じでしょうか?
 


だから、何かのそれらしい思わせぶりな要素は、つねに隠し持って居なければならない・・・ってことなんでしょうか? 




参考文献:守屋 洋著『新釈 老子』
PHP文庫1988年



ほなまた! 失礼
|彡. サッ!!