『老子』を読み返してみた・・・20.求道者の憂鬱
|ω・) ソーッ・・・ 皆さん、ご機嫌よろしゅうに。
今回は『老子』の20章です。今日はひたすら「道」を究めんとする者の孤独を嘆く。嘆きつつもそれでいいと、自らを奮い立たせる。そういう章になります。
『老子』第20章
衆人皆有以、我独頑以鄙。吾欲独異于人、而貴食母。
衆人は皆以(もち)うること有りて、我ひとり頑なにして以って鄙(ひ)なり。吾ひとり人に異ならんと欲して、母に食(やしな)わるるを貴ぶ。
訳:人々はみな有能なのに私だけは愚かで野暮ったい。私はひとり人々と違って、母なる「道」の懐に抱かれたい。
この章に出て来る「我」あるいは「吾」はすなわち道を追求する者。老子その人と言われています。こざかしい世俗の中に自然体で立とうとしている。また、世俗との訣別すら決意するという覚悟を持っています。まるで世の中の人がみんな賢く「ああだこうだ」言ってる中で、ひとり静かに。自ら「はぐれの道」を選ぶという悲壮感すら漂います。
こういうのを「孤高」と言うのでしょうか? 孤独であり、一見愚か者だと誤解されることすらある。でもそれでいい・・・。
これは世俗に言う愚かとは違います。才知の限界を悟った者の姿であり、決して何も知らない愚かではない。ということは、やはりある程度の学びを通過してこの姿へと行きつくという事。そういう意味では、権力者が考える「愚民主義」とはちょっと違いますね。
彼らの言う愚民とは、まさに何も知らない。しかも知ろうという努力も放棄してしまった民です。その方がなにかと扱いやすいし騙しやすい。そういうことですね。騙されてるように見えるが、肝心なところでは鋭く突いてくる。そういう民でありたいものです。
参考文献:守屋 洋著『新釈 老子』
PHP文庫1988年
ほなまた! 失礼
|彡. サッ!!