『老子』を読み返してみた・・・16.静は必然
|ω・) ソーッ・・・ 皆さん、ご機嫌よろしゅうに。
今回は『老子』の16章です。毎回これを読んでいる間だけは、心が落ち着く・・・そんなシリーズを目指していますが・・・今回はちょっと字数が多めで大変かも、です。
『老子』第16章
静是謂復命。復命、常也。知常、明也。不知常、妄。妄作凶。
静、是を命に復すると謂う。命に復するは常なり。常を知るは明なり。常を知らざるは妄なり。妄なれば凶をなす。
訳:静とは本来の姿に帰ることである。本来の姿に帰るのは必然である。必然を知ることを明という。必然をわきまえなければ妄動におちいる。妄動は凶を招く。
大自然=万物のあり方にならって、静を貫くことの大事さを説いています。静であってこそ、大きな摂理である常(必然)を体現できる。つまりこれこそが、人の目指すべき明知であるということです。
そして、この必然つまり静を貫く姿勢を忘れた状態が妄。妄の状態でむやみに動き回れば・・・どんな結果になるか、もう想像がつきますね。たぶん碌な結果にならないでしょう。
なんだかあれに似てませんか? そう「動かざること山の如し」・・・風林火山の林と山の例えがぴったりくるような気がします。昔の人は賢かった。それに引き換え今の政治家・経営者ときたら・・・・・・もうやめときますw
参考文献:守屋 洋著『新釈 老子』
PHP文庫1988年
ほなまた! 失礼
|彡. サッ!!